嘘つき娘のパラドクス

「私は嘘つきです」という一言から生じるパラドクスについては有名すぎてここで語るまでもない。嘘をつくことは怖くない、或いは本能或いは欲望から嘘をつく人間というのは、ごく一般的で普通で無害だ。本当に怖いのは嘘をついているのかついていないのか自分でもわからなくなってしまうことだ。「私は嘘つきです」をもし正として捉えるのであれば間違いなく私は嘘つきだ、しかも後者の。自分が嘘をついているのか、それとも嘘をついていないのか自分ではわからない。だから他人にどうジャッジされるのかもわからない。

 

さて、体調を崩した。正確に言うと、精神の疲れが限界に達し、日常生活が送れなくなった――と、多くの大人に判断された。そのため、通っている大学から8ヶ月ほど離れることを決めた。8ヶ月。何をしようかも決めていない。未来の見通しが立てられるほどのエネルギーが、どうやら今の私には無いようだ。でも私にはわからないのだ。私が嘘をついて大人を騙して嫌なこと、つまり大学から逃げようとしているのか、それとも本当に休息が必要な病人なのか。だから思うのだ。「治ってしまったらどうしよう」。

 

人の手が怖い。小さいころ、私は優しく抱き締められて、よく父や母に言われていた。「エリカ、エリカ、可愛い子。お父さんとお母さんの大事な大事なたからもの」。一字一句違わずにそう言われていた。私は私が彼らの宝物だと信じて疑わなかったし、彼らの宝物として生きる権利が保障されていると思っていた。でも残念、そうではなかった。私は嘘つきだった。生まれついての、嘘つきだった。嘘つきは愛してもらえないことがあるのだと知った。

 

中学を上がるころ、深刻なうつ状態に陥った。でもそれを、両親は信じなかった。怠けているだけ。逃げてるだけ。私は必死で彼らに助けを請うたが、彼らは私に向けたその手のひらで私の頬を張るばかりで、助けてなんてもらえなかった。深刻なうつ状態の原因は父だった。

虐待を受けていた、と言ったら虐待を受けていた人たちに鼻で笑われそうな程度のものだ、今の言葉で言うのならばそう、モラハラ。或いは行きすぎた教育的指導。父の私に対する教育はいきすぎていた、と今となっては思う。叩き、蹴り、椅子から引き摺り落とし、ものを取り上げ、ついには学校さえ辞めさせようとし、犬以下だと、生きる価値がないと罵られる日々が何年間も続いた。私は本気で自分が犬以下の存在だと信じ込むに至り、どうにかして父から逃げる方法を考えてばかりいた。逃げるな、逃げるなと父は言った。逃げられなかった。逃げようとして、逃げられなくて、捕まえられてまた殴られた。

母はそれを隣で見ていた。私は不思議だった。なぜこの人は私が殴られているのを止めてくれないのだろう?なぜこの人は、私がコップ一杯の水すら差し出してくれないのだろう?なぜ殴られている私に冷たいのだろう? 教育的指導、が終わってしばらくしてから母は私に言った「何度もお父さんを止めようとしてたんだよ」。そんなのは関係なかった、助けて欲しい時、本当に逃げたい時に母は私に冷たかった。父の教育から逃れたいと悲鳴をあげる体が吐き気を催し腹痛を催し、私がトイレにこもってげーげーと吐き続けると母は嫌な顔をした。彼女は助けてくれなかった。

たとえそれが、私が逃げていたからだったとしても、事実、母は、私への暴力を、止めなかった。私からすれば、加担すらした。私が病気であることを母は否定し続けた。父も否定し続けた。私は嘘つきになった。病気のふりをして嫌なことから逃げる、嘘つきになった。

 

今現在、どうだろうか。父と母は、すこぶる私に優しい。一刻も早く実家に帰って来なさいと言う。休むことはいいことだと。なぜだろう?私にはわからないのだ。助けて欲しい時に助けてくれなかったあの人たちが、なぜ今回はこんなに優しいんだろう?それはきっと、今回彼らは、「私が逃げようとしている」と思っていないからだ。立ち向かって、立ち向かって、ボロボロになりながら戦って帰って来た戦士を迎えるような気持ちで私を受け入れている。

それが嬉しくないわけではない。父と母を愛している。彼らから大事にされて、宝物のように扱われて、休んでいいよ、頑張ったね、と言われるのは嬉しい。でも。私には、今の私には、私が休息が必要な病気の患者なのか、嘘をついて大人を騙して嫌なことから逃げようとしている嘘つき娘のか、自分でさっぱり区別がつかないのだ。だからいつ、誰から、どのようにどう判定されるかわからない。

 

今、父と母は私を抱き締めて髪を撫でてくれている。頑張ったね。えらかったね。おやすみは神様からのご褒美だよ。好きなことをしなさい。愛しているよ。でも、いつどこで何がきっかけで私が病気ではなく嘘つきだと彼らが判定するかもしれない!「なんだそんなことができるなら病気じゃないじゃないか」「なんだ嘘をついていたんじゃないか」「嘘つき」「嘘つき」「嘘つき!」 そうしたら私の髪を撫でている手はひっくり返るだろう。その手で彼らは私を殴るだろう。髪を掴んで引きずり回し、ゴミ置き場に捨て置いて蜚蠊と共に眠らせるだろう。捨て置かれた私はきっと何もできない。体を売って日銭を稼ぎ、自分を愛せないまま死んでいくことになるだろう。

 

だから怖い。休むことが怖い。病気が簡単に治ってしまうことが怖い。嘘をつきたくないとなく嘘つき娘を誰が助けてくれるだろうか。